mts ノート

自身のツイッター内容のまとめ (脱出駅 EPISODE 4)

8カ月間、ブログやSNSから距離を置いていた理由

久しぶりに記事を書いています。8カ月ぶりくらいでしょうか。

SNSやブログからしばらく距離を置いていました。

 

今でも、インターネットやSNSには素晴らしい力があると信じています。

でも、今は距離を置いています。それはなぜか?

 

現在のインターネットやメディアの「在り方」が、私の望む姿から大きく乖離しているからです。

 

例えて言えば、、、「平和につながると信じて作ったダイナマイトが、戦争に利用されるようになってしまって失意のどん底に堕ちてしまった」という、アルフレッド・ノーベルのような心境なのかもしれません。

 

昼の12時、会社の食堂で放映されるテレビのワイドショー。

ポータルサイト「ヤフー」のセンセーショナルなトピックス。

芸能人や著名人のプライベートや発言のキリトリ報道。

それらに苦言を呈して己の正義を振りかざし生計をたてるフリーライターたち。

そんな表面だけの上っ面な報道に、いちいち反応する読者たちの様々な声。

 

今はそれら全てが不快です。

 

先日、私が勤めている工場にクレームが発生して、ツイッターで吊るし上げられました。しかし、様々な科学的根拠を重ね、さらに、保健所からの立ち入りも入った結果、私達に一切落ち度はないことが判明しました。

しかし、ツイッターには、いまでもそのつぶやきが残されています。

 

情報を発信するって、こんなに無責任で良いのだろうか?

 

現在のテレビやインターネットで垂れ流されている情報は、たとえ全てではないにしろ、

「読者の感情を逆撫でし、いたずらに感情を煽る情報」

で満たされています。

 

そんな現状に対し、私の精神はもはや限界でした。

 

マスコミも、フリーライターも、

そしてそれらに感情を煽られている読者も、

 

全ては世間の「傍観者」でしかない。

 

私は、自分自身もそんな傍観者の一部になることに我慢ならなかった。

インターネット上で、自分の正義を振りかざして、世の中の「傍観者」でいることは、もうイヤなのです。

 

「傍観者」でいるくらいだったら「当事者」でありたい。

世の中の様々な問題に、自らが切り込んでいって、未熟ながら色々と勉強して、トライアンドエラーを繰り返して、少しでも世の中の役に立ちたい。

今はそう思っています。

 

妻のため。家族のため。会社の仲間のため。

今は、身近な人たちを少しでも助けられるように、色々なことを勉強しながら活動しています。

 

おかげで、だいぶ精神状態は良くなりました。

 

精神を病んだことから始めたブログですが、

こうして自身のメンタル状態について記事にすることは、もう無いかもしれません。

 

狭い人間だと言われてもイイ。

世界の「傍観者」ではなく、今はとにかく目先の「当事者」として。

 

これからも自分の望むままに、ひたすら目の前のコトに集中したいと思います。

 

(連絡)しばらく休止します。

いつもお世話になっております。

 

この度、本ブログならびにツイッターを始めとするSNS活動を、当面の間、休止することにいたしました。

インターネットという素晴らしい媒体によって、多くのことを学び、また多くの方々と知り合うことが出来ました。

しかしながら、自分自身がさらなる成長を遂げるために、一度、インターネットの世界から距離を置くことを決心しました。

いつも懇意にして頂いている方にとっては、寝耳に水の話で驚かせてしまったかもしれませんが、どうかご理解いただけますと幸いです。

 

それでは、また。

 

「子育て」「部下育成」「発達障害」などで悩んだら

①子供が理解してくれない、動いてくれない。

②後輩が思い通りに成長してくれない。

発達障害のせいで日常に弊害が生じている。

④スポーツでなかなか勝てない。

⑤少しでも夢・理想に近づきたい。

 

あなたが上記に記載しているようなことに1つでも当てはまるならば、ご一読していただければと思います。今回は「行動科学」の大切さについて語ってみようと思います。

 

先日、私は建設業界を去り、6月からまた新たに工場に勤めています。ここの職場はとても雰囲気が良いです。現場の班長さんは、「分からないことがあったら、何でも聞いてくださいね!」と、何度も何度も念を押して私に話しかけてくれます。おそらくは社内でそういう教育を受けているんだと感じました。この辺から既に、前職の建設業界とは違います。

前職(建設業界)では、1度教えられたことを再度教えてくれることはありません。「え?さっき教えたよね?聞いてなかったの?」と返される。だから新入社員は繰り返し質問することをためらい、「確かこうだったかな?」という思い込みで作業をして、「何やってんだ!」と叱られる。確かに、質問しない新入社員も悪いですが、質問しづらい環境を作ってしまっていることにも原因があります。これは、会社だけではなく、家庭内でも同じです。自分の息子・娘に「さっき教えたじゃないの!」「どうしてできないの!」「お父さん(お母さん)の話、聞いてなかったの!」と憤慨しては絶対にいけません。それによって子供は次のアクションを起こすことに躊躇し、悪循環に陥ります。

どうして相手が理解できないか?相手が100%悪いのか?

否。もしかしたら、あなたの教え方・導き方を見直す必要もあるのかもしれません。

 

相手を良い方向に導くとき、覚えて頂きたいことが2つあります。

 

1つ。

「”意識”が変わるから”行動”が変わるんじゃない」

「”行動”が変わって、そこで初めて”意識”が変わる」ということです。

この辺は特に年配の方々が未だに誤解されている人も多いと思います。「さっき教えたじゃないの!」「どうしてできないの!」「お父さん(お母さん)の話、聞いてなかったの!」「何やってんだ!」という言葉がとび出る。これは、自分の感情をぶつけているか、もしくは相手の意識を変えようという想いから出ている言葉です。

思い返してみて下さい。

そういう言葉を相手にぶつけて、果たして相手は変わりましたか?変わらなかったでしょう?

まずはそこに気づいて欲しいのです。

 

2つ。

「目標が高い場合、理解できない場合は、行動を”細分化”する」ということです。

ビジネスの世界では当たり前のように唱えられていますが、これはとても重要なことです。極端な例ですが、学校の授業も「一定期間内に、一定の学力を身につける」ために、ただやみくもに授業をしたりしません。綿密な計画の下、「時間割」によって科目毎に授業が細分化されます。気合いをかけて「3年後までにこのくらいの学力を身に付けなさい」と言って3年間分の教科書を与えても効果は望めません。

 

例を出してみましょう。

 

工場において。

袋の中に、チョコレートか何か、袋詰めにする作業があったとします。1つの袋に対してチョコレート9個にしましょう。あ、皆さんもイメージしながら読んでくださいね。

それに対し、監督が、「1つの袋に対してチョコレート9個詰めてください」と指示しました。作業員はドンドン袋詰め作業に取り掛かります。しかし、作業員も人間なので、ちょっと集中力を欠いたり、不注意だったりして、時には8個、時には10個にして気づかないまま密封して、商品化しそうになることがある。

そこで問題。あなたが上司だったら、作業員にどんな言葉を掛けますか?

 

「何で間違えるんだよ!バカかお前は!数を数えられないのか!」

おそらく前職の建設業界だったら、そんな罵声を浴びせて、気合を注入しようとします。なぜ、こういう風に罵声を浴びせようとするのか?それは「作業員の”意識”を変えようとしているから」です。しかし、この対応は行動科学的には良くない。

ではどうするか?

「9個詰める」という指示を出しても、そこに行き着くまでのプロセス(過程)は、作業員によってまちまち、つまり「個人差」が生まれてしまっている。だったら、そのプロセスをもっと細分化して、指示すれば良い。

つまり「行動」を変えるのです。

 

「袋に3個詰める作業を、3セットおこなって、9個にするようにして下さい」

「袋に詰めたら、測りで測定してください。〇g~△gの範囲内だったらOK」

このように指示することで、エラー率はグッ!と下がります。そして「出来る」という体験を味わってもらうことで、作業員も自信がつき、そこで初めてプロの意識を持つようになる。

これが、

「”意識”が変わるから”行動”が変わるんじゃない」

「”行動”が変わって、そこで初めて”意識”が変わる」ということです。

そして、

「目標が高い場合、理解できない場合は、行動を”細分化”する」ということです。

 

これは「行動科学」による、非常に理にかなった指導法です。皆さんも、上記のたとえ話を参考にしてみてください。例えば子育て、部下の育成。そしてこれが通用するのは他人に対してだけではありません。発達障害で苦しんでいる人や、夢に向かって懸命に頑張っている人「自分自身を律する」ときにも大いに参考になるはずです。

目の前に大きな山が立ちふさがったら、それを超えるのは意識とか、根性とか、やる気とか、気持ちとか、そんなんじゃない。何をするのか?そして大きな山を小さく、そして細分化して超えられる高さに調整するのです。

スポーツ選手がチビッコ君たちに「夢をかなえるためにはどうすれば良いですか?」と質問されたとき、「小さなことからコツコツとやってみてください」と回答しているのは、そういうことなんです。

 

最近、不幸なニュースが続いています。

 

日大アメフトだったり、サッカーワールドカップだったり。

「どうしてできないの!」「さっき教えただろ!」「もっと気合を入れろ!」「意識を変えろ!」「もっと考えろ!」

一流と呼ばれる監督や選手ですら「行動」ではなく「意識」を変えようとしているのです。

しかしそれでは前進しません。サッカーのワールドカップのとある出場選手は、練習試合の敗戦後のインタビューで、

「もっと高い意識をもって動かなきゃダメだ。」と回答していました。

だからダメなのです。

 

子育ての虐待問題もそうです。

子供に身体的な暴力、言葉の暴力をして、最悪、子供の命を奪ってしまった親は、子供の心・精神・意識を変えようとして、「行動科学」の手法を知らなかった。これは断言して良いと思う。

子育てをしている人に伺いたい。

「どうしてできないの!」「さっき教えたでしょ!」「もっとちゃんとやりなさい!」「どうしてお父さん・お母さんの言うことが聞けないの!」

そんな言葉をかけていませんか?

私は、子供への虐待はそこが起点になっているような気がしてなりません。

子供が出来なかったら、「目の前のハードルが高い」ということです。幼い子供は、行動を細分化する術を知りません。親である「あなた」がそれをやってあげる必要があります。

 

「やる気がない」場合も同じ。いくら気合かけてもムダです。

「じゃあ、どうすればやる気が出るのか?次の行動の一手は??」

やる気がないのにも、必ず原因があるはずです。まずは休んで、距離を置く。そして、別の行動を促して、小さな成功を積み重ねるように誘導することが肝要です。

 

人を育てる。自分を律する。

現在、あらゆる分野において「日本の教育」は崩壊しているように感じます。それを立て直すとしたら、「行動科学」という分野なのではないかと私は思います。

 

ここまでご一読して頂いた方はぜひ「行動科学」について勉強してみたり、インターネットで検索してみてください。

 

・・・と言っても、きっと、誰も検索しませんよね(笑)

自己啓発の本を読んでも、読みっぱなしで実行に移せないのと同じです。

 

分かりました。行動を細分化しましょう。

 

↓↓↓イラストレーター・マツオユキさんのページです。私よりもシンプルに記事にされていて読みやすいです。下記のアドレスへクリックしてみてください。ぜひ!

 

matsuoyuki.jp

無知の知

「オレは冒険者なんだぜ。行けない場所なんてない。」

昔遊んだ冒険RPGの主人公が、そんな類のことを言っていたような気がする。

 

あの頃の夢、いつから忘れていたのだろうか。

 

周囲を見回してみる。

大人って、分かっているようで、意外と何もわかっていない。

それはなぜ?

 

なぜかは分からないけど、冒険する気持ちは、加齢とともに失われていく。

自分の世界の広さを勝手に決めて、そこから出ようとしなくなる。

テリトリーの外側は常に自分にとって常に「危険」だと決めつける。

 

なぜかは分からないけど、大人は安定を求めたがる。

 

ニュースのこと。

社会問題のこと。

仕事のこと。

私生活のこと。

人の心。

自分のことでさえも。

 

大人は、自分にとって都合の良い真実だけを垂れ流す。

安全な場所で、安全な真実だけを矛として、盾とする。

 

外側の、新しい領域に、新しい答えがあるかもしれないのに。

 

私、mtsは、数年前からずっと、偏向報道について苦言を呈してきた。

それと同時に、最近のインターネット上での「世間の声」とやらも随分と偏っていて非常に居心地の悪さを感じていた。

 

某ジャニーズの某メンバーが強制わいせつ容疑にかけられた件についても、

「甘い」「病気」という言葉だけでは片付かない。

テレビでのコメンテーターのコメントなど、薄っぺらくて正直聞いていられない。

 

「甘い」という言葉は、行動科学的に言えば、さして意味のない言葉であるし、

「病気」と向き合う難しさを考慮していない発言も、私にとっては「不快」でしかない。

 

そしてこれらの偏った発言の数々によって、

「加害者は100%悪く、被害者は100%悪くない」

「この人はダメだけど、この人は黙認」

「タバコはダメだけど、酒は黙認」

などという、偏ったひずみが生じている。

 

「狂った世界のパワーバランスを変えるのだ」

昔遊んだホラーゲームの悪役が、そんな類のことを言っていたような気がする。

 

その悪役のように世界を一度リセットしようなどとは思わない。

 

が、私達1人1人が、

色々な世界・色々な方面から学ぼうとする姿勢を持ち続けなければならないと思う。

それはメディアだけではない。

繰り返しになるけれども、私達1人1人が、だ。

それほどまでに、「言葉を発信する」ということは責任が伴う

 

「無知」であることは悪くない。

でも、それで良しとしてはいけない。

自分に関係のあること、自分に関係のないこと。

色々なことを勉強する、ということは、とても重要なことのように思う。

 

私は先日、とある建設会社を退職した。

私は、建設のことを理解していなかった。

私は、仕事のこなし方を理解していなかった。

私は、お客様の要望に対する応え方を理解していなかった。

私は、同志の気持ちを理解していなかった。

私は、私自身のことを理解していなかった。

そして、

私は、それ以外のことも、全く理解していなかった。

 

それを知らなくても、生きていける。

確かにそうかもしれない。

それを知らなくても、自分には関係ない。

確かにそうかもしれない。

 

でも・・・それでイイのだろうか?

その想いこそが、自分の人生のバランスを崩壊させてしまうのではないか。

 

漠然とだけど、

いま、そういうふうに反省している。

 

今一度、自分を見つめなおしたい。

 

自分の残りの人生の時間、どのように使うか?

 

しっかりと考えて、しっかりと歩んでいきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オレは冒険者なんだぜ。行けない場所なんてない。」

 

昔遊んだ冒険RPGの主人公が、そんな類のことを言っていたような気がする。

 

 

Win-Winの関係とは?

一時期、twitter上でこんな書き込みを見かけた。

 

「お前店員にお礼とか恥ずかしいことすんなや」

 

例えば、コンビニでのレジの清算時。店員がお客様に「ありがとうございました」とお礼を言うシーンは常態化しているが、逆に、お客様から店員に「ありがとうございました」とお礼を言うべきなのか、それとも言った方がイイのか、言わなくても良いのか、言うべきではないのか?インターネット上で物議をかもしている、らしい。

 

個人的には「そんなに物議をかもす問題か??」と不思議でならない。

 

「契約」とは本来Win-Winの関係が成立していることが望ましい。それが、スーパーやコンビニなどで売買を行うときも例外ではないと思っている(「諾成契約」と呼ぶらしいけど)。片方は望んでいた商品を受け取り、片方はお金を受け取る。お互いに望ましい結果になる(「Win-Win」の関係になる)からこそ、「この契約が成立することで、あなたも私も”望み通り”の結果になりました。どうもありがとう!」という想いは発生しても何らおかしくはない。いや、個人的には、むしろそうでありたい。

Win-Winの関係が成立しているなら、経済社会を営む人間の1人として、お互いにお礼を交わしたい、と私は常に思っている。少なくとも「片方だけお礼を言う」という事象は「常態化」しているけれども、私は少し、違和感を覚えている。

 

それは、実際の自分の仕事上でも、それを強く感じる時がある。

 

建築という仕事をしていると、色々な人と出会う機会に恵まれるが、まれに「招かれざる客」がその中に入ってきたりする。

建設業界においては、未だに「お客様は神様」の精神が根強い。悪い意味で。

建物というのはオーダーメイドであるがゆえ、見積もり内容を都合よく解釈する人も多く、「お客様は神様」という威厳を悪い意味でとらえ、無理難題を吹っ掛ける人も決して少なくない。建設業界でWin-Winの関係を成立させることは中々に難しい。

これは私なりの考えですが、Win-Winの関係を成立させるためには、契約「」(見積時)に「内容を具体的に明らかにすること」が大前提であるように感じている。

 

製造者は?販売者は?賞味(消費)期限は?商品名は?お客様の要求事項は何?その商品はその要求事項を満たすために適切なの?お届けするのはいつまで?などなど・・・

 

これらが曖昧であれば曖昧であるほど、Win-Winの関係が成立するどころか、トラブルに発展しやすい。

これは売り手側だけの問題じゃない。買い手側も「要求事項は何か?」ということを明確にする「義務」があると私は思っている。契約「」に

「買い手側の深層心理に潜んでいる要求事項を引き出す」というのが売り手側(特に営業マン)の仕事ではあるが、それでも限界がある。引き出せなかったからといって、売り手側が100%悪い、というのはどうなのかな、と私は思う。

 

そして、それは「会社」と「社員」の関係も同じ。

 

会社にも要求事項がある。社員にも要求事項がある。

お互いの要求事項を満たし合うから、契約が成立する。

しかし、どちらかの要求事項が急激に変化したりすると、これまたトラブルの原因になる。

「給料がこうなるハズだった」「働く日数・休む日数はこうなるハズだった」「こういう仕事を任されるハズだった」「地元で働くハズが遠くに飛ばされた」などなど。

ウソをついている可能性も、勿論ある。そんなつもりが無かったとしても、お互いの要求事項が曖昧なままにされていたがため、急激に契約が不成立になることもある。

 

私個人としては、もうそういうのはヤメにしたい。

 

そして、大切だと思うのは、トラブルの原因は「双方にある」と思えるかどうか、だ。

 

お互いがWin-Winの関係を目指し、お互いが歩み寄るということ。

これが何よりも大切なのだと思う。

トラブルが発生して、憤慨するのは「歩み寄っている人間」とは限らない。

「歩みよる努力を怠った人間」「歩み寄る努力をした人間」に憤慨することもある。

それは理不尽極まりない。そうやって、せっかく努力した人間の精神が壊れていく。

本来、契約に「年齢」は関係ないものだけれど、、、

それでも、「歩み寄る努力をした若者」「歩み寄る努力を怠った年配者」にガミガミギャーギャー言われている光景は、情けなさ過ぎて、見ていられない。

 

だが実際、そういう人達を何人も見てきた。そんな世界はもうコリゴリだ。

 

契約って、なんだろう?

Win-Winの関係って、なんだろう?

そのことを、今一度よく考えてもらいたいし、私自身もよく考えたい。